2020年2月14日(金)
朝 の 説 教
- 使徒ヨハネの人生 -
『ヨハネの手紙三』13~15
1 はじめに
今日は手紙の最後の部分です。ヨハネの思いが短い言葉に凝縮されています。手紙ではなく近い内に直接訪問したいこと、受取人のガイオや教会の仲間に平和(平安)があること、主にあって仲良く暮らすように、と書いています。ヨハネは、イエス様の弟子になったばかりはとても怒りっぽく、「雷の子」と呼ばれていましたが、今や「愛の使徒」と呼ばれる程に成長し、変えられています。イスカリオテのユダを除く11人の弟子たちは、皆、苦難と忍耐の生活を送りました。ヨハネもそうでした。しかし、パウロが「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を産むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません」(『ローマ』5:3-5)というように、苦難を忍耐し、最後には希望に満ち満ちた生涯を送りました。日本でも昔から「艱難汝を玉にす」と言います。人生の苦難は出来たら避けたいものですが、愛なる神様は、私たちを訓練するために苦難をお与えになるお方であります。
2 奇跡の人
見えない・聞こえない・話せない、の三重苦を克服したヘレン・ケラーのことを知っていますか?彼女の生涯を描いた戯曲があり、日本語では「奇跡の人」と訳されています。そのためか「奇跡の人」とはヘレン・ケラーのことと誤解されますが、原題は「The Miracle Worker」、直訳すれば「奇跡の働き手」であり、ヘレンを家庭教師として支え続けたアン・サリバン(サリバン先生)のことです。彼女の人生こそ「艱難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を産む」を実証する人生でした。
サリバン先生がアメリカで生まれたのは1866年、日本では江戸時代の末期です。アイルランド系移民の貧しい農家の子として生まれました。貧しさと栄養失調のために3歳の時にトラコーマに罹り失明しました。9歳で母を亡くし、弟も結核で亡くなりました。「これでもか!」という苦難の連続です。失望したアンは一切の食事を摂らずに自殺しようとしました。でも入院した病院で、バーバラ神父やクリスチャンの看護士が毎日聖書を読んでくれたことから、少しずつ心を開くようになりました。アンは14歳で盲学校に入りました。学校に訪ねてきた親切なクリスチャンの新聞記者の助けで目の手術を受け、かなり見えるようになりました。努力家のアンは、パーキンス盲学校の卒業式で、卒業生代表でスピーチを行いました。卒業後、21歳の時に電話を発明したベル氏の紹介で、当時6歳だったヘレン・ケラーの家庭教師を始めました。それ以来70歳で亡くなるまでの49年間、サリバン先生は自分の名誉も地位もかなぐり捨てて、ひたすらヘレン・ケラーをわが子のように、また妹のように愛し続け、涙と祈りの内に育て上げました。サリバン先生はいかなる時にも失望せず、挫折せず、挫けず、三重苦のヘレン・ケラーを「光を掲げる偉大な魂」にしました。このサリバン先生の献身的な努力は、全く世界の驚異でした。奇跡です!でもその背後に、ヨハネが何度も述べてきたこと「言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」(『ヨハネの手紙一』3:18)の愛の実践があったことを忘れてはなりません。このように神様は、愛の御計画の内に我々に愛の訓練を与えるお方なのであります。
後年、ヘレン・ケラーがテンプル大学から博士号を授与された時、その隣でサリバン先生もまた博士号を授与されたのでした。神様からのご褒美ですね。「善かつ忠なる僕よ、よくやった!」という神様のお声が聞こえるようであります。