- もし罪を犯させるなら -
『マルコ』9章42節~50節
今日の聖書には、罪に対するイエス様の大変厳しい言葉が繰り返されています。「つまずかせる」という言葉が4回出て来ます。「つまずく」とは「歩く時に、足先に物が当たってよろけること」で、転じて、「仕事につまずく」などのように、「障害があって中途で失敗する」ことを意味します。私ならつまずくとは訳さず、もっと原語に忠実に「罪を犯させるなら」と訳します。この訳を用いれば、「もし片方の手や、片方の足や、片方の目があなたに罪を犯させるなら、それらを切り捨ててしまいなさい」と言っているのです。何と厳しい言葉でしょうか!驚きを禁じ得ません。
42節に出て来る「石臼」は、小さなものではなく、ロバに引かせる重くて大きな石臼のことです。それを身体に括り付けて海に投げ込まれたら、到底浮き上がることは出来ません。私など罪の多い人間ですから、この通り大きな石臼を体に括り付けられ、とっくの昔に海の底に沈んで死んでいたでしょう。
キリスト教では良く罪を問題にします。仏教で言う「煩悩」に近いものです。仏教の教えによれば、人間には何と108もの煩悩があり、大晦日から元日の朝にかけてお寺で鳴らす「除夜の鐘」は、煩悩を吹き払って新年を迎えるべく108回鳴らします。煩悩の中では「3毒の煩悩」が最も厄介で、それは①貪欲、②瞋恚(しんい)= 激しい怒り、③愚痴 = 嫉妬、の三つです。
イエス様は『マルコ』7章15節で、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出てくるものが人を汚すのである」と言っていました。人間には「良心」というものがありますから、大抵は欲望をコントロール出来るのですが、欲望が上回ってしまえば、それに負けて罪を犯すことになります。
欲望は人間誰しも持っており、欲望を完全に消し去ることは不可能です。大切なのは、欲望をコントロールすることです。そのために有効な方法があるのでしょうか?私が心掛けているのは、聖書の言葉を暗記して心に蓄えておき、いざという時には、その聖書の言葉で罪の欲望を撃退することです。今日の聖書のイエス様の言葉、「自分自身の内に塩を持ちなさい」(50節)と同じです。
私の尊敬する牧師の一人に正木茂先生がいます。先生の著書『この日この朝』は私の愛読書で、毎朝1ページ、聖書と共に必ず読みます。その中にこんな記事がありました。先生は最初は医者になることを目指し、神戸大学の医学部に入学しました。しかし家が貧しかったので、一年間、オートバイを売るアルバイトをしていました。ある日、社長と一緒に集金に回りました。予想以上に順調な集金ができたので、喜んだ社長から歓楽街に連れて行かれました。そこは個室に女の人が来て背中を流してくれるようないかがわしい風俗店でした。クリスチャンであった正木先生は、暗記していた「どうしてわたしはこの大きな悪をおこなって、神に罪を犯すことができましょう」という『創世記』のヨセフが言った言葉を大声で叫び、罪を犯さずに済ませました。ヨセフは兄たちからエジプトに売り飛ばされ、エジプトの高官であるポティファルの家で働いていました。熱心で陰日向なく働き、しかも大変な美男子でした。そんなヨセフを好きになったポティファルの妻は再三ヨセフに言い寄りました。その誘惑を退ける時にヨセフが叫んだ言葉です。正木先生は、帰りたがらない社長を無理矢理オートバイの後ろに乗せて、その風俗店から帰り、罪を犯さずに済んだと書いています。
正木先生と同じように、私たちにも心に備えがなければ、聖書の教えを心に蓄えて反撃しなければ、我々は甘い誘惑に簡単に負けてしまいます。テレビや新聞のニュースの殆どが、この誘惑に負けた人の話です。もし報道されていることが真実であれば、カルロス・ゴーン元日産の会長は、絶対的な権力を用いてお金への欲望という罪を犯してしまった人間です。
今日の聖書は、私たちに罪への対抗手段としても、聖書の言葉を心に蓄えることを勧めているのです。