新井秀校長説教集104「ファリサイ派の人々を非難する」

2024年9月13日(金)
朝 の 説 教
- ファリサイ派の人々を非難する-                        『ルカ』11章37~43節

1 ファリサイ派の人々を非難する

イエス様はファリサイ派の人たちに向って「あなたたちは不幸だ」と3回も言い放っています。如何に神の子イエス様とは言え、他人に向って「あなたは不幸だ」などと連呼して良いのでしょうか?更に彼らを「貪欲だ」とか、「悪意に満ちている」とか、「愚かな者たち」とか言っています。よくもこんなに悪口を並べ立てるな―、と思うほどの徹底的な非難です。一体全体、彼らはそんなに悪者なのでしょうか?

ファリサイ派の「ファリサイ」とは他者が付けたニックネームです。「分け隔てられた」という意味です。律法を大切に守っていた彼らを周りの人々が見て、ファリサイと呼び始めたのです。「俺たちは先祖伝来の律法をとことん守っている。なのに、周りの多くの人々は律法を守らない。そんな奴らと俺たちは違うんだ。一緒にしないでくれ」という態度の彼らに、そういうニックネームが付けられたのです。

律法の元々はシナイ山で神様がモーセに与えた「十戒」です。それが枝分かれし、細則が加えられ、イエス様の時代には613もの大変な数になっていました。ファイリサ派の人々はその一つ一つを徹底して守ったのです。彼らは食事に招待されたイエス様が手を洗わなかったことを不審に思いました。いや、不愉快に感じたのです。皆さんは食事の前に必ず手を洗いますか?もしそうなら衛生的に見て素晴らしいことです。でもファリサイ派の人々は、手を洗わなかったことが衛生上良くないと言っているのではありません。イエス様が「食事の前には必ず手を洗うこと」という神聖な律法を無視したことを怒っているのです。イエス様は激しい口調で彼らに反撃しました。「どうしてそのような外見だけの、見せかけのことを大切にするのか。一般の人が毎回食事前に手を洗うことなど不可能ではないか?砂漠にあって水は容易に手に入らぬ貴重品。それが分からないのか。そういう庶民の立場が分からないのか?理解できないのか?」という思いなのです。

2 ファリサイ派の人々のどこが悪いのか?

ファリサイ派の人々は大変真面目な几帳面な人たちでした。当時の精神的指導者であり、エリートであり、皆から尊敬されていました。そんな彼らのどこが問題だとイエス様は言うのでしょうか。聖書の42節に答えが書かれています。ファリサイ派の人々、あなたたちは〈正義の実行〉と〈神への愛〉をおろそかにしている。これこそ行うべきことである、です。

律法をきちんと守ること自体は素晴らしいことです。イエス様も守りましたし、弟子たちにもファリサイ派の人に負けずに律法を守るように指導していました。本来、律法は人のため、特に弱い人々のために神様が愛をもってモーセに伝授したものです。ファリサイ派の人々の目は愛に満ちているのではなく、人々が律法を守っているかどうか常に監視する鋭い目でした。守っていないのを見つけ出し、厳しく注意し処罰するための目です。愛情が湛えられた目ではなく、裁きの冷徹な目です。優しさに欠けてもいました。毎回の食事前に手を洗うことなど庶民には不可能です。でもそんなことにはお構いなく、一律に裁くのです。これでは正義の実行も神への愛もありません。自分は正しく完璧である、それに対してイエス様や弟子たちはいい加減だ、と非難しているのです。
彼らは目の前にいるイエス様が神の子であること、救い主・キリストであることを認めようとしません。偏見と先入観で心が硬くなっているからです。想像するに、ファリサイ派の人々がほほ笑むことなど一度も無かったのではないでしょうか?いつも鋭い目つきで人々を監視し、律法を守っていなければ即刻捕え、裁き、結局は自分たちこそが神に最も愛されるべき存在なのだと信じ切り、主張している人々だったのです。

使徒パウロは『ローマの信徒への手紙』1:31で、「神を神としてあがめず、感謝もせず、その心は鈍く暗くなっている」、と言っています。ファリサイ派の人々はまさにこのような心の状態だったのです。

人生を楽しく明るく生きる秘訣は二つだ、とパウロは教えています。

第一は神を認め神を崇めることです。換言すれば、心から畏れ敬う方を持つということです。

第二はあらゆることに感謝することです。今生きていることを初め、日常の一つ一つのことにに感謝する心を持つことです。

これは私が時々振り返る重要な聖書の言葉であります。