- 哀しみのどん底から -
『詩編』88編
今日の詩は出口が無いような、深い悲しみに満ちた詩です。イギリスの神学者カークパトリックは、「詩編150編の中でも、最も悲哀に満ちた詩である」と言っています。例えば、4節の「わたしの魂は苦難を味わい尽くし」や、5節・6節の「力を失った者とされ、汚れた者と見なされ」や、9節の「あなたはわたしから親しい者を遠ざけられました」などです。悲しみ苦しみの原因は何なのでしょうか?分かりませんが、「汚れた者とみなされ」や「わたしから親しい者を遠ざけられました」などから、この詩の作者は重い皮膚病に犯され、家族から捨てられ、友達からも捨てられ、哀しみのどん底にあるのだと想像することもできます。かすかな救いは14節の決意です。これは冒頭に「しかし」を入れるべきだと思います。「しかし主よ、わたしはあなたに叫びます。朝ごとに祈りは御前に向います」と書いています。たとえ苦しみ哀しみから逃れなくても、わたしは「祈り続けます」「希望を持ち続けます」との決意を述べているからです。
人間にとって最も辛く悲しいことは何でしょうか?その一つは愛する家族の死だと思います。以前栃木県の那須岳で、春山登山講習会に参加していた高校生が雪崩に巻き込まれて死亡した事故がありました。あの春山講習会には私自身、山岳部の生徒を連れて何度も参加していたので、他人ごとではなく、本当に辛い悲しい出来事でした。前途洋々の自慢の息子を突然失った親の悲しみはどれ程でしょうか?何によっても慰め得ない苦しみ哀しみでしょう。
ここに一冊の本があります。『死の陰の谷を歩むとも-愛する者の死-』という本です、愛する家族を亡くした8名の牧師や信徒が書いた涙の証です。この冒頭にある大宮溥(おおみや・ひろし)牧師の文章を紹介したいと思います。
「私が新潟で牧師をしていた時です。小学5年生になる娘の恵里が、突然病魔に犯されました。学校から帰って間もなく、鼻血が出て止まらなくなりました。医者に診せると「すぐに入院しなさい」とのことでした。私と妻は床に倒れ伏して、神様にとりすがる想いで、「娘の命を助けて下さい!」と力の限りに祈りました。しかし、医師の口から出た病名は白血病。わたし共が一番恐れていたものでした。最短だと数か月。不意にこういう死の宣告を受けたのです。
体中の血が外に流れ出して行くような、凍りつくような、冷たく辛い経験でした。怒りと悲しみに、心のたがが外れたようでした。わたしは祈りの中で神様を探しに行き、神様にしがみついて「恵里を助けてください!」「恵里を返してください!」と必死で祈りました。しかし、ちっとも良くならないのです。本当に「自分の命を取って下さっても良いから、恵里の命を助けて下さい!」と祈りました。しかし聞かれないのです。神様の無慈悲さに、怒りが込み上げてくることもありました。
ところが恵里が死んで、私の祈りが聞かれないままに終わった時、私はふと、神様とかたく結び合わされている自分に気付きました。「キリスト、わが内にありて生くるなり」(『ガラテヤの信徒への手紙』2:20.文語訳)という事実の発見でした。
葬儀の時、植村正久先生の訳されたストック女子の詩を読みました。
「家には一人を減じたり、
楽しき団欒(まどい)破れたり。
愛する顔、いつもの席に見えぬぞ悲しき
されば天に一人を増やしぬ
清められ、救われ、全うせられし者、一人を
One less in Home
One More in Heaven!
この詩の作者も、大宮先生ご夫妻も、出口のない悲しみの中で神様から離れず祈り続けました。愛なる神様は、その時には分からず気付くことができなくても、「必ず、必ず、最善を為してくださる」という信仰がそうさせたのです。