2020年6月3日(水)
<「ともし火」のたとえ〉『マルコ』4:21~23>
1 はじめに・・・イエス様は、ともし火と秤(はかり)のたとえを使って、神の国はどのようなものであるかを話されました。短い時間なので、ともし火のたとえについてだけ話します。イエス様の時代、オリーブ油を燃やすのが唯一の灯でした。か細い灯でした。それを燭台の上に置き部屋中を照らしました。
家の多くは一間きりで、窓も全くないか1か所でした。とても薄暗かったようです。その貴重な灯を寝台の下や升の下に置くのは、全くナンセンスです。
ここで「ともし火」とはイエス様のことです。21節に「ともし火を持って来る」とありますが、直訳すれば「ともし火が来る」です。「光であるイエス様が来る、今来られた」という意味です。イエス様は別の箇所で「わたしは世の光である」と語られています。光は人間生活に不可欠な有難いものですが、光であるイエス様を消そうとした人々がいました。当時の指導者であった律法学者やファリサイ派の人々です。彼らは光であるイエス様を妬み・否定し、遂には十字架で殺しました。でもイエス様はきっぱりと「隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」と断言しています。ナザレという世界の片隅で灯されたイエス様という灯は、今や世界中に拡がり、人々の心を灯しています。その通りになったのです!
2 光の有難さ・・・今までの人生で、光の有難さを最も痛感したのは東日本大震災の時でした。あの日私は、梁川中学校の卒業式に出席し、終わってから休みを頂いて宇都宮に帰省する車の中でした。丁度白河を越え栃木県に入った時でした。今まで経験したことない恐怖の中、空き地に一旦車を止めて倒れないように抑えました。宇都宮に着いたのは夜でした。途中の信号は点かず衝突事故を起こさないか不安でした。街の殆どは真っ暗。一部に灯が点いていました。光の有難さを痛感しました。これは暗闇を照らす電灯ですが、今日の聖書は私たちの心を照らす真の灯こそ、イエス・キリストだと言っています。
3 三重苦の聖女ヘレン・ケラー・・・昨日6月2日は、ヘレン・ケラーが87歳で亡くなった日です。1880年、今から140年前、アメリカ南部に可愛い女の子が生まれました。両親はヘレンと名付けました。元気にすくすく育ったのに1歳半の時、突然脳膜炎という恐ろしい病気になり、目が見えず、耳が聞こえず、口がきけなくなってしまったのです。でもヘレンは後にアメリカ最難関のハーバード大学女子部に入り、生涯2つの博士号を取りました。信じられないことです!何がそれを可能にしたのでしょう?
第一は、敬虔なクリスチャンであった両親の愛です。
第二は、電話を発明したベル博士など、多くのクリスチャンの愛の奉仕です。
第三は、「奇跡の人」サリバン先生の、献身的な愛の働きです。
でも最大の理由は、ヘレンが心を照らす希望と勇気の灯であるイエス様を信じたからです。ヘレンはパーキンス盲学校在学の13歳の時の古典の授業で、テニスンの書いた詩を学びました。その中の次の言葉がヘレンの心を捕らえ信仰に導きました。
強き神のみ子、永遠に変わらぬ愛よ、われわれはこの肉体の目であなたのみ顔を見たことはありません。
しかし、信仰によって、信仰によってのみ、理論で証明できぬものを信じて、神の子と、しかと把握することができるのです。
後にヘレンはこう書いています。「目で太陽が見えるか見えないかは問題ではありません。大切なのは、心に光であるイエス様を迎え入れることです。神を知ること、その限りない愛を感じることは、目が見えず、耳が聞こえない者にもできるのです。私は決して不幸な人間などではなく、世界中で一番幸せな人間であることを知ったのです」と。
近づいて来られたイエス様という灯を心の中にお迎えし、真に幸せな人生を送らせていただきましょう!