新井秀校長説教集30~人はしるしを欲しがる~

2020年7月1日(水)

朝 の 説 教   ~人々はしるしを欲しがる~                      『マルコ』8章11 節~13 節

  • はじめに・・・今日は、ファリサイ派の人々が「イエス様が本当に神の子であるならその証拠を見せろ」と要求したところです。それに対してイエス様は、彼らの不信仰を深く嘆いています。人間というのは疑い深い者ですね。確たる証拠がなければ信じられないのです。

  • 洗礼者ヨハネもイエス様を疑った・・・『マタイによる福音書』では洗礼を授けて欲しいと願うイエス様に「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへこられたのですか」と謙遜に話していた洗礼者ヨハネでしたが、やがて捕らえられた獄中から弟子をイエス様のもとに派遣して、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねさせています。かつてはイエスを神の子と認定したヨハネでさえ、死を目前にしてこのような疑いを持ったのです。再度証拠を求めたのです。人間の疑い深さを痛感するところです。それに対するイエス様の答えは、「行って、見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」でした。「もう証拠は十分な筈。これ以上どんな証拠が必要だと言うのだ」と切り返しているのです。イエス様は十字架で殺されてから3日の後に復活され、弟子たちに会われましたが、そこに居合わせなかった弟子のトマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言い張りました。でも8日後、再度弟子たちを訪問されたイエス様から「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と諭されました。トマスはひれ伏して自らの不信仰を恥じ、「わたしの主、わたしの神よ」と信仰告白をしたのでした。
  • バブコック牧師の場合・・・讃美歌361番「この世はみな」は私の大好な讃美歌の一つです。放送礼拝が続き皆さんと一緒に大声で讃美歌が歌えないのがすごく残念です。曲はイギリスの伝統旋律でとても美しく、詩はニューヨーク州にいたバブコック牧師が、ご夫妻で散歩で良く訪れたエリー湖やナイアガラ滝周辺の美しく雄大な自然を歌ったものです。その2節には、「この世はみな、神の世界(神がお創りになった世界の意)、鳥の音、花の香 主をたたえる。朝日、夕日、空に映えて、み神のみわざを、語り告げる」と、この美しく雄大な自然は全て神がお創りなったものだと賛美しています。神の存在を証しする証拠は、このようにいくらでもあるのです。
  • 私たちの身体も神様がいる証拠になる・・・神様がいることは人間の身体を見れば納得する筈です。人間の血管は全部繋ぐと地球の2倍半、10万キロあります。その中を血液が24時間猛スピードで駆け回っています。心臓から頭を回って心臓に戻るまでたったの8秒、心臓から爪先を回って心臓に戻るのにたったの18秒です。血液中のヘモグロビンは酸素を取り込み、有害な老廃物や炭酸ガスを放出しますが、それにかかるのは僅か3分の1秒だそうです。もうこれだけで、私などただびっくりして、「人間の体は神様がお創りになったもの」と思うのですが、皆さんは如何でしょうか?

私たちは、神様・イエス様の存在を素直に認める者でありたいと思います。そうすれば自分の身体に対しても、自然に対しても、心からの感謝の念が湧き上がってくるからです。