2020年7月9日(木)
朝 の 説 教 ~再び自分の死と復活を予告する~
『マルコ』9章30 節~32 節
- はじめに・・・マルティン・ケーラーは、「マルコによる福音書は長い序文付きの受難物語だ」と申しました。確かに、ほぼ中間の8章でイエス様は、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」(8:31)と弟子たちに告白されました。今日読んでもらった聖書は二度目の予告です。この受難予告について、①父なる神様の思い、②イエス様の思い、③弟子たちの思い、の三つに分けてお話ししたいと思います。
- 父なる神の思い・・・イエス様は「必ず・・することになっている」と言いました。ギリシャ語では「デイ」、英語では「must」です。それが神様の御計画なのだというのです。先日佐々木先生が『イザヤ書』53章を引用されました。イエス様の誕生よりも約700年前の預言者であるイザヤは、あたかも自分の目で見てきたかのように、キリストはこういう生涯を送ると預言し、全くその通りになりました。「愛する子であるイエス様を十字架刑で殺すなんて、あんまりだ!」と叫びたい位ですが、父なる神の本当の思いは違いました。「父の涙」というゴスペルがあります。その一番で作者の岩渕さんはこう書いています。
心にせまる 父(神様)の悲しみ
愛するひとり子を 十字架につけた
人の罪は 燃える火のよう
愛を知らずに 今日も過ぎてゆく
十字架から あふれ流れる泉
それは 父の涙
十字架から あふれ流れる泉
それは イエスの愛
私たちを罪から救うには愛するひとり子イエスに死んでもらうしかないという痛切な神の思いだったのです。父なる神は、十字架にかかり血を流しているイエス様を見て、悲しみの涙を流していると書いています。全くその通りだと思います。
- イエス様の思い・・・30歳で愛する家族と別れ、故郷ナザレを後にして神の子としての公生涯に入られたイエス様は、その時から自分の短い人生と十字架での死を予感していたことでしょう。でも本心は、何とか死ぬことは避けたいという思いでした。死を目前にしたケッセマネでイエス様は、「父よ、あなたは何でもおできになります。この杯(十字架での死)をわたしから取りのけてください」と祈っています。心からの叫びであります。「お父さん!私を殺さないでください!」と必死で命乞いをしています。でもイエス様の祈りの最後は、「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」でした。こうしてイエス様は、人々の罪を救う唯一の道である十字架への道を歩み出されたのであります。
- 弟子たちの思い・・・師と仰ぐイエス様からの突然の死の予告は、弟子たちにとって信じがたい、あってはならないことでした。「私たちは皆、家族を捨て、仕事を捨て、あなたに従ったのですよ!先生に期待していたのは、憎きローマ帝国から独立を果たし、神から特別に選ばれた選民としての独立と誇りを取り戻して欲しいことでした。それが、苦しみ、敗北し、殺されると言うのですか!とんでもないことです」。こんな思いでした。そこで弟子たちを代表してペテロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めました。「いさめた」と訳さている言葉は、「厳しく叱りつけた」という意味で、英語でも「rebuke」と訳されています。弟子たちには到底理解し難い、納得できないことでした。
このように父なる神と、ひとり子イエス様と、弟子たちの思いは大きく異なっていました。でも神の御意志が絶対です。十字架への道が粛々と進められていきます。これからマルコ福音書のイエス様は、十字架へ十字架へと進まれるのであります。