新井秀校長説教集32~子供のように神の国を受け入れる~

2020年7月16日(木)

朝 の 説 教

-子供のように神の国を受け入れる-

『マルコ』9章13 節~16 節

1 はじめに・・・今日はイエス様が幼子に手を置き、抱き上げ、祝福された微笑ましい箇所です。親たちが子供の健康と成長を願って、今評判のイエス様に子供に手を置き祝福して頂きたいと連れて来たのです。ところが弟子たちは
この人々を叱りつけ追い返そうとしました。「先生はとても疲れている。これ以上先生を患わせたくない」という配慮からでしょう。でもイエス様はこれを見て憤りました。「イエス様が憤った」と書いているのは聖書でここだけです。イエス様は「神の国はこのような者たちのものである」と言われ、子供たちに手を置き、抱き上げて祝福されました。

2 イエス様の思い・・・この箇所についての解釈は大きく二つあります。一つは、「子供はまだこの世の悪に染まらない純真無垢の状態にあるので、イエス様は子供のようにならなければ神の国に入ることは出来ないと言ったのだ」という理解です。幼稚園の生みの親であったフレーベルは、「子供には神の性格が宿っている。それが正しく発揮されるように育ててゆかなければならない」と言いました。もう一つは、「神の国は子供のように無力で、欠けの多い、未熟者に与えられるものだ」という理解です。きっと後者がイエス様の思いであったろうと私は想像しますが、でも子供の持つ純粋さや天真爛漫さを否定する者ではありません。

3 幼稚園での体験・・・私はここへ戻って来る前の3年間、須賀川市で教会の牧師と付属の幼稚園・保育園の園長をしていました。そこで私は、しばしば子供たちの純真さに驚き、教えられました。毎朝門に立ち、登園して来る園児や保護者と挨拶を交わしていました。ある朝、一人のおじいちゃんが私の所に来て、「園長先生、昨夜孫に注意されちゃったんですよ。孫が、おじいちゃんはどうして食事の前に神様に感謝のお祈りをしないの?と言うんです。参りました!今朝から孫に教わって一緒にお祈りするようにしました」と言うのでした。

キリスト教主義の幼稚園ですから、お昼の給食の前には必ずお祈りをして、それからいただきます。その子は家でもそれを忠実に実行し、祈りをしないで食べ始めるおじいちゃんを注意したのですね。「凄い!」と思いました。また給食は、クラスを順番に回って子どもたちと一緒に食べました。子供たちは「園長先生ここへ来て!一緒に食べよう!」と大騒ぎです。ある日の給食時、お祈りをしてさあ食べようとすると、デザートのゼリーがとてもうまそうでした。私が我慢できず最初に一口ゼリーを食べるとどうでしょう!女の子2~3人が私を睨みつけ、「園長先生、デザートは最後に食べるものです!」と叱られてしまいました。懐かしい思い出ですし、子供の素直さ、恐れを知らいない純真さを思わされた貴重な経験でした。

4 大江健三郎さんと6歳の息子光(ひかり)さん・・・大江健三郎さんはノーベル文学賞を受賞した有名な小説家です。息子の光さんは、脳に障害をもって生まれました。人の話を聞くことは出来ても、生まれて6年間言葉を発することがありませんでした。大好きなのはNHKから発売されていたクラッシクのレコードと小鳥の声のレコードを聴くことでした。鳥が「ホーホケキョ」と鳴くと、アナウンサーが「ウグイスです」と言うのです。重い障害児をもった苦しみに喘ぐある夏、大江さんが光さんを肩車に乗せて森を散歩していた時のことです。以下、講演から引用します。「その時、クイナという鳥が鳴いたのです。

そうすると、頭の上の息子が「クイナです」と言った。私は幻聴かと思いましてね。鳥がもう一度鳴いてくれないかなと思った。そして息子がもう一度「クイナです」と言ってくれたら、私の息子にも人間の言葉を話す可能性があると思いました。その時、私は祈っていたんです!私は無信仰な人間なのです。仏教もキリスト教も信じていない。でも祈っていたんです。この一瞬が自分の人生で一番大切な時かもしれないぞ、と思っていたんです。するともう一度クイナが鳴きましてね。息子がもう一度「クイナです」と言ったんです。人間はこのように人間のために祈る者なのだと、私はたった6歳の息子から教えられたんですよ」

今日の幼子のように、私たちは欠けの多い今のままの自分でイエス様の所に行き、イエス様に手を置いていただき、イエス様に抱きしめていただく者でありたいと、今日の聖書から教えられました。