2020年9月4日(金)
朝 の 説 教
-律法学者に気をつけなさい-
『マルコ』12章38節~40 節
イエス様は「律法学者に気をつけなさい」と言っています。何故でしょうか?
イエス様の時代、今から約2,000年前のイスラエルでは、律法(法律)が事細かに決められていて、人々の生活の隅々まで支配していました。一例を挙げるなら「安息日規定」です。安息日に歩いて良いのは約1,100mまでで、それを破ると厳しく罰せられました。「~してはならない」という禁止の律法が365、「~しなさい」という律法が248、計613もありました。こうした律法を知り、忠実に守れば良い人間、神様に祝福される人間になり、逆に守っていなければ悪い人間、神様から呪われる人間と見なされました。だから律法の専門家である律法学者たちは、人々から尊敬され、学識もあり、豊かな生活を享受していました。でもイエス様の目は誤魔化せません。イエス様は彼らの心を見抜いていました。表と裏の全く違う偽善者としての実態です。
1 律法学者は、長い衣をまとって歩き回っていました。衣の四隅には目立つ房を付け、裾は地面に着く程の長さでした。これでは活発には動けませんし、仕事もできません。
2 彼らは、広場で挨拶されることを望んでいました。神殿の広場をゆっくり歩き、人々から「ラビ!」(先生!)と尊敬の気持ちを込めて呼ばれることを求めていました。ラビとは「わたしの偉大なお方」という意味です。
3 彼らは会堂では上座に座りました。そこは聖なる巻物を納める聖なる箱に近い場所で、誰からも見える特等席でした。彼らはそこに座って人々の尊敬の視線が注がれるのを求めていました。
4 彼らは宴会では上席に座ることを望みました。ご主人の右隣りの最上席か、ご主人の左隣の次席に好んで座りました。「わたしは偉い人間なんだぞ!」と見せびらかすためです。
5 彼らはやもめの家を食い物にしていました。やもめとは、病気や戦争などで夫を失った未亡人です。律法学者たちはこんな弱い人々をも虐げ、富を貪り取っていたのです。
6 彼らは見せかけの長い祈りをしました。神様に向う祈りではなく、人々に見せびらかし、「何て立派で敬虔な先生なんだろう」と思わせるためです。 こうした律法学者の態度をイエス様は厳しく批判しました。イエス様が言いたいことは、ご自身率先垂範したように、人間、とりわけ神に仕える人間は有名になることよりも、人々に褒めそやされることよりも、神様から与えられた場で誠実に、一所懸命(いっしょけんめい)に祈り働くことこそ大切なのだということでした。
瀬戸内海に面した岡山県玉島で長く教会の牧師をし、保育園の園長をされた河野進という方がおられました。人々から大変慕われ、その優しく柔和な人柄から、いつしか「玉島の良寛様」と呼ばれた先生です。その河野先生に「ぞうきん」という詩があります。
ぞうきん
こまった時に思い出され
用がすめば、すぐ忘れられる
ぞうきん
台所のすみに小さくなり
むくいを知らず
朝も夜もよろこんで仕える
ぞうきんになりたい
素晴らしい詩ですね!人間には誰しも人々から褒められたい、尊敬されたい、目立ちたいという欲望があります。でもイエス様はそのような生き方はしませんでしたし、賛成なさいません。目立たない社会の片隅で、精一杯、誠実に生きること、「ぞうきん」(雑巾)のように、使われて感謝もされず、すぐ忘れられる存在で良いのだと言っているのであります。