2020年11月26日(木)
朝 の 説 教
- エチオピアの高官への伝道 -
『使徒』8章26節~40節
1 はじめに・・・今フィリポはサマリア地方にいます。福音伝道はうまく進んでいました。聖書に「フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた」(12節)とある通りです。でもそんな成功の中、神は「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と命じました。聖書に「そこは寂しい道である」と書いてあります。ガザは、砂漠の町です。エジプトに向う途中にある寂しい、破壊された、荒野となっている、その道の途中にある町です。いかに神様の命令とはいえ、せっかくサマリア地方で順調に伝道できているのに、なぜ神は寂れて荒れ果てた町ガザに行けというのか、きっとフィリポは理解に苦しんだことでしょう。自分の意志としては同意できないことでした。でも神の命令だからと、「すぐ出かけて行った」のです。するとエチオピアの女王の全財産を管理している高官に出会いました。聖書はわざわざ、彼が宦官であったと記しています。
女王に仕えるのに安全なように手術を受け、男ではなくされた人でした。地位はいくら高くても、人間としての尊厳を奪われた人でした。でも彼はユダヤ教を信じていたようで、遥々アフリカから何千キロも離れたエルサレムに来て、神殿で礼拝を済ませて国に帰る所でした。馬車に乗った彼は大声で旧約聖書の『イザヤ書』53章を読んでいました。これが、今日の聖書の背景です。
2 この物語から教えられること・・・今日の聖書から私が教えられたことを三つ話したいと思います。
第一は、声をかけることが如何に大切かということです。フィリポは、馬車に追いつくと、エチオピアの高官がイザヤ書53章を読んでいることが分かったので、「読んでいることがお分かりになりますか?」と声をかけました。高官は読んでいる聖書が理解できませんでした。特に「彼」と言っているのが、イザヤ自身のことなのか、誰か別の人のことなのか、分かりませんでした。高官は「手引きをしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」とフィリポに訴えました。「そこでフィリポは口を開き、聖書のこの箇所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた」のでした。パウロが書いた『ローマの信徒への手紙』10章に、「信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。『良い知らせを伝える者の足は、何と美しいことか』」とあります。フィリポは神に遣わされ、イエス様の福音を宣べ伝え、イエス様を信じてもらうことに成功しました。まさに、「良い知らせを伝える者の足は何と美しいことか」に相当する働きであります。
第二は、聖書を理解するためには手引きが必要だということです。私は高校2年の時初めて聖書を読みましたが、分からないところだらけでした。そんな時、『ルーテル・アワー』というラジオ・キリスト教番組を聞くようになり、多くを学びました。牧師になった今も、本や、ラジオ・テレビ・DVDなどから学びを続けています。
第三は、ここに一つの「出会い」が生じたということです。神のご命令だからと自分の意志に反してやって来たフィリポと、宦官という人間の尊厳を奪われ疎外された立場に生きる者が出会い、イエス様を仲介として一つになったという出会いです。しかもこれは単なる偶然ではなく、神様が愛をもって準備された出会いでした。そこに聖霊の業が働いて、二人とも神様の恵みに与る者となった出会いであります。フィリポと別れたエチオピアの高官が、「喜びにあふれて旅を続けた」という聖書の記事から、そのことが分かります。伝説によれば、エチオピアに戻った高官は、熱心にイエス様の福音を人々に伝えたとのことです。こうしてイエス様の愛の福音がアフリカにもたらされたのです。
今日の聖書から教えられた三つのことを皆様にお伝え致しました。改めて私も「良い知らせを伝える者」となるよう、祈り働く者でありたいと思いました。