2021年6月22日(火)
朝 の 説 教
- 口の利けない人を癒す-
『マタイ』9章27~34節
今日の聖書は、口の利けない人をイエス様が癒されたところです。口が利けないと言っても、自由に喋れる私たちにはすぐにはピンと来ません。そこで考えてみました。もし私が今、突然、ここで、口が利けない人間になったらどうなるのか?と。もう人前で話が出来ないのですから、私は聖光学院を辞めなくてはなりません。大好きな高校の教師を辞めなくてはなりません。また私は月2回、福島市内の教会で説教をさせて貰っていますが、声が出ないのでは説教が出来ませんから、牧師も辞めなくてはなりません。やむなく福島を去って宇都宮に戻っても、家族に話しかけることも出来ず、ただ微笑んだり、悲しそうな表情をしたり、泣いたりを繰り返すだけでしょう。手話は私も家族も出来ませんから、筆談が自分の思いを伝える唯一の方法です。何ともどかしく、辛く、悲しいことでしょう!今の私の生活は完全に終わりです。皆さんも、もし自分が突然口が利けなくなったならどうなるか?・・と想像してみてください。
口が利けないことは、いかに大変な不自由と苦痛と悲しみが伴うことか、想像するだけで恐ろしくなりました。今日の聖書に出て来るこの人も、同じ不自由と苦痛と悲しの中にずっと暮らしてきたのです。
私は小さい頃、かなりひどい「どもり」でした。緊張すると余計に言葉がスムーズに出てこないのです。両親はとても心配したようです。気が付くと、私は独り言を良く言っていました。幼いながら必死に自分のどもり・吃音を治そうとしていたのです。独り言による治療効果があったのか、少しずつ改善され、今はこうして皆さんの前で話が出来るようになったのが嘘のようです。
イエスさまの愛と力で、この人は口が利けるようになりました。ものを言い始めたのです。何と言う喜びでしょうか!皆で「おめでとう!良かったね!イエス様のお陰だね!」と歓喜の輪が出来ても良さそうなのに、周りの反応は違いました。群衆は驚嘆して、「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と叫びました。一見まともな反応のようですが、驚くような奇跡を見なければイエス様がキリスト(救い主)だと信じられないという危険が含まれています。一方ファリサイ派の人々は、「あの男(イエス)は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と語りました。何という心のひん曲がった嫉妬心の強い人たちでしょうか!口が利けるようになり、苦しみから解放されたのですから、何故素直に「良かったね!おめでとう!」と共に喜ぶことが出来ないんでしょうか?パウロは「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(『ロマ』12:15)と教えています。でも、これ程実行の難しい教えはありません。自分だけが取り残されたようで、素直に他人の幸福を喜べないのです。私にもそういうところがあります。悔い改めなくてはなりません。
最後に、口が利けない人で私が知っているクリスチャンの詩人、水野源三さんについて話します。源三さんは9歳の時、集団赤痢に罹り、42度もの高熱に襲われ、脳性麻痺で首から下と言葉の自由を失ってしまいました。元気で利発だった源三少年を突然襲った病気。源三少年と家族の悲しみと苦しみは想像を越えます。でも故郷伝道に心血を注いだ宮尾隆邦牧師によって源三少年にイエス様の福音が伝えられました。1年後(13歳)には洗礼を受けクリスチャンになり、母のうめじさんの献身的な働きで、「まばたき」によって詩や俳句・短歌を作るようになりました。口が利けない源三さんは、耳が鋭敏になりました。「足音」という詩があります。
足 音
今日一日も
足音で始まる
新聞配達の足音
牛乳配達の足音
郵便配達の足音
今日一日の
霊の糧を与えてくださる
主の足音
源三さん一家は、口が利けるように癒して欲しいと、何度必死に主に祈ったことでしょう。でもそれがイエス様の答えでないと知ると、残された機能をフルに活かして、神様・イエス様の素晴らしさ、家族への愛と感謝、自然の美しさへの賛美を、多くの詩や短歌に書き残したのです。障害をイエス様と共に見事克服した一人の人間の生き方は、本当に驚くべきものだと思います。