2022年10月12日(水)
朝 の 説 教
- 安息日に水腫の人を癒す - 『ルカ』14:1~6
『ルカによる福音書』には安息日論争の記事が4つあります。既にその内の3つを学びました。第一が「安息日に麦の穂を摘む」(6:1~)、第二が「安息日に手の萎えた人を癒す」(6:6~)、第三は「安息日に腰の曲がった婦人を癒す」(13:10~)、そして第四が今日の話「安息日に水腫の人を癒す」です。
前回も申し上げたことですが、週に一日の安息日を設け、社会の底辺に喘いでいる女性や奴隷や寄留の他国人、さらには馬やロバなどの家畜にまで適用されていたことは、真に驚くべきことです。遥か昔にこんな愛情豊かな、弱い者の立場に立った決まりがあったことは真に驚くべきことです。ところが時が経つにつれ、愛情がたっぷり込められた安息日規定から愛の精神が消えうせ、他人の行動を監視し、決まりを守っていなければ容赦なく取り締まる、ギスギスした社会に変わってしまっていたのです。
イエス様は決して安息日を疎かにされたお方ではありません。イエス様は安息日を聖なる日としてとても重んじていました。必ず会堂に出かけて聖書の言葉に耳を傾け、時には聖書の言葉を教えたりしていました。ただイエス様は、細かい規則づくめになり、形式のみを守り、安息日の本当の精神を忘れたあり方に大きな問題を感じておられたのです。律法を本来のあるべき姿に戻したいと考えていたのです。
アメリカの西海岸カリフォルニア州で1884年(今から約140年前)、金が見つかり「ゴールドラッシュ」が起きた時のことです。人々は我先にと一攫千金を夢見て馬車を仕立て、西へ西へと急ぎました。それを見たある牧師一家が、「このままでは金をめぐって醜い争いが起こる。我々もカリフォルニアに行って教会を建て、人間として正しい生き方を教え続けなければならない」と馬車を仕立て、西へ西への旅を開始しました。殆どの人は誰よりも早くカリフォルニアに着いて金を見つけ大金持ちになりたいので、昼夜を分かたず、キリスト教の安息日である日曜日も休まず走り続けました。でも牧師一家は違いました。月曜日から土曜日までは馬車を走らせましたが、安息日である日曜日は家族で神様に礼拝を捧げ、讃美歌を歌い、心身のリフレッシュをし、馬にも十分な休養と栄養を与えました。結果この牧師一家が最初に目的地のカリフォルニアに到着したというのです。安息日を守ることの大切さ、素晴らしさを教えてくれる出来事です
このように、週一回の安息日の休息は人間にも動物にも必要です。でももし病気で苦しんでいる人がいたらどうすべきでしょうか?律法学者たちは、死にそうな患者なら治療をしても良い。しかし急患や死にそうな人の治療以外は労働に当り、安息日規定に違反するとしたのです。
今日の聖書には水腫という病気に苦しんでいる人が出て来ます。水腫とは体の中に水が溜まり膨れる病気です。イエス様の時代、律法学者たちはこの病気になった者は異性との乱れた性関係の結果だと勝手に考えていました。この病人は1分でも1秒でも早く病気を治して欲しいのです。苦痛から解放して欲しいのです。ましてや、常に大勢の群衆に取り囲まれているイエスに出会うチャンスは、今日をなくしたらいつまた来るか分からないのです。お会いした今癒して頂かなければ、再びその機会が与えられるかどうか分からないのです。「今日は安息日だから癒すことは出来ない」とイエス様に言われたら、この病人はどんなに失望したことでしょうか。でもイエス様の愛の心は微動だにしませんでした。「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。人の子は安息日にもまた主なのである」と断じ、この人の病を癒されたのです。それは命がけのことでした。何故なら食事に招待されたとは言え、それは罠であり、「人々はイエスの様子を窺っていた」からです。怒りに燃えたイエス様は「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」と言い放ちました。だれも反論できる者はなく、ただイエスへの憎しみだけが募り、何としても捕らえて殺すしかないという考えに一気に傾いていったのです。
イエス様の愛の勝利でした。でもそれは御自分の命を捨てる覚悟の上での愛の行動であったことを我々は忘れてはなりません。