2022年10月21日(金)
朝 の 説 教
- 放蕩息子のたとえ - 『ルカ』15:11~25
今日の「放蕩息子のたとえ」は、芥川龍之介が「短編小説の極致」と呼んだほど素晴らしい例え話です。
ある人に息子が二人いました。弟がある日突然「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」と要求しました。父は「何を言うか!そんなことが出来るか!」と怒って断ることも出来たのにそれを認め、慣例に従って長男の分として三分の二を取っておき、残りの三分の一を弟に分け与えました。彼は財産を全部お金に換え、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして無一文になってしまいました。「放蕩」とは「酒や女にふけり、身を持ち崩すこと」です。しかも飢饉が追い打ちをかけ、彼は食べる物にも困り、ある人の世話で豚飼いをさせてもらいました。ユダヤ人は豚を汚れたものとして忌み嫌いその肉は食べません。弟はあまりの空腹から豚の餌になる「いなご豆」さえ食べたくなる程でした。
どん底に落ちた彼はやっと我に帰りました。今日の聖書で一番重要な言葉はこの17節の「我に返って」です。「本心に立ち返った」のです。深く反省した弟は、①自分は神様に対してもお父さんに対しても罪を犯したこと、②もう息子と呼ばれる資格などないこと、③日雇い労働者の一人にでもしてもらいたいと心に決め、父の元へ戻って来たのです。
父は毎日戸口に立って息子の帰りを待っていました。父はまだ遠くにいる息子を見つけるや、憐れに思い走り寄って抱きしめました。息子に謝る時も与えず、父は僕たちに矢継ぎ早に命じて息子に良い服を着させ、指輪をはめ、履物を履かせました。完全に元通りの自分の息子として扱い、肥えた子牛を屠り祝宴を開いたのです。音楽が演奏され、踊りを踊る人までいました。ここで音楽と訳されたギリシャ語は「シンフォニア」と言い、「シン」は共に、「フォニア」は響くで、交響曲(シンフォニー)の語源になった言葉です。きっといくつかの楽器が合奏されたのでしょう。
畑で働いていた兄は何事かと思い、事の次第を僕の一人から聞くと激怒しました。「お父さん、どうしてこんなことをするのですか?放蕩の限りを尽くした「あなたのあの息子」をそんなに簡単に許すのですか?そんなことはあり得ないことです。それでは秩序が保てません。しめしがつきません」と激しく父を攻撃しました。父は静かに「『お前のあの弟』は死んでいたのに生き返った。いなくなったのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」と言いました。真面目な兄が怒って自分の弟を「あなたのあの息子」と冷たく言い放ったのに対して、父親は「お前の弟だろう」と言い返しています。
もう皆さん気付いたことでしょう。この譬え話の父親は神様・イエス様のこと、兄は当時の指導者であったファリサイ派や律法学者のこと、弟は徴税人や娼婦・罪人を指しています。イエス様は優等生である兄も、劣等生の弟もどちらも「放蕩息子」だと言っているのです。一見真面目に父である神に仕えた兄も、心の中には感謝も喜びもなく、我慢し堪えながら神に仕えていたのです。それでは神に仕えていたことにはなりません。実際は神の心から遠く離れていたのです。そういう意味で兄も放蕩息子です。弟はどん底に落ちて本心に立ち返り父なる神の懐に戻って来たのですから、それは大きな喜びだったのです。
オランダの画家レンブラントは何度も放蕩息子の絵を描きました。でも描く度にその中心は放蕩息子の弟ではなく、父親が中心になっていきました。レンブラントが言いたかったことは「人間は父なる神の愛なくして生きてはいけないのだ」ということだったのです。
パウロが『ローマの信徒への手紙』1:21で言うように「神を神として崇めず感謝もせず、その心は鈍く暗くなっている」のが我々の現状です。私たちの心が暗く喜びもなく沈んでいるなら、それは「神を神として崇めず、感謝の気持ちをもたないからだ」とパウロは言うのです。本当にその通りだと思います。今日のイエス様の例え話は、我々すべてに悔い改めて愛なる神様・イエス様に立ち返ることを求めているのであります。