2023年5月25日(木)
朝 の 説 教
- 人を裁くな - 『マタイ』7:1~6
今日は「人を裁くな」というイエス様の教えについて三つに分けて話をします。
第一は〈裁く〉という言葉についてです。私は〈裁く〉という言葉はとても強いと感じます。何か悪いところだけを指摘されるように感じるのです。そこで元々のギリシャ語を調べてみました。〈裁く〉と訳された言葉は「クリノオー」と言い、「判断する」とか「~と思う」という意味でもあります。英語の聖書を見るとjudgeとなっており、私は何となくホッとします。良いか悪いかを判断するという意味だ、と分かるからです。
第二に、イエス様は何故「人を裁くな」と言ったのかです。聖書には直接の答えは書かれていません。私の考える理由は次の三つです。
- 私たち人間には、他人や出来事のほんの一部しか把握できないからです。相手や出来事の全体を正確に把握することなど、とても出来ないからです。
- どうしても人は自分に甘く他人に厳しいのです。故に、他人を公平に見ることも殆ど不可能だからです。
- 他人を裁くことができるほどの善人など、本来この世に存在しないからです。
イエス様時代の宗教上の指導者であった律法学者やファリサイ派の人々は、自分たちは常に正しいと自慢し、他人を監視し、評価し、何て駄目な者たちだと裁いていました。イエス様はそういう彼らの高慢な態度が大嫌いでした。心の中に愛情や同情心の一かけらも無いからです。イギリスの神学者バークレーは〈裁くな〉というイエス様の教えについて、「われわれは、表面にあらわれた欠点を見て、人を非難したり裁いたりせず、その人の内にある良さや美しさを見出すように努めなければならない」と書いています。イエス様が言いたかったことを正しく指摘している言葉だと思い紹介しました。
第三は、相手を裁いて、もし良い判定をしたのなら、声に出して相手を褒めることの大切さです。私は今から26年前、研修のためにアメリカに3か月滞在しました。その時アメリカは何て人を褒める文化なんだろう!と痛切に感じました。私がアメリカのある教会で礼拝後15分位話をしたときのことです。一冊のギデオンの聖書を貰った人がイエス様をキリストと信じるようになった実話を話しました。礼拝後、説教壇に向って30人位の列ができました。何事かと思い牧師に「あの人たちは何ですか?」と聞きました。牧師の答えは「あなたの話に感動してあなたにお礼を言いたくて並んでいるんですよ」とのこと。とても信じられないことでした。アメリカ研修中、私はクリスチャンの友人から何かある度に「good job!」と、声をかけてもらいました。「良かったよ!」位の褒め言葉です。正直とても嬉しかったことを覚えています。
彼らアメリカのクリスチャンは、イエス様が良く人を褒めたことを聖書で知っていて、自分たちもそれに倣っているのだと私は理解しました。イエス様は罪の女に「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(『ルカ』7:50)と言われ、部下の病気を癒して欲しいと願い出た百人隊長には、「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」(『ルカ』7:9)と褒めたたえています。自分の信仰を神の子イエス様から褒められる、これ程嬉しく、これ程名誉なことはありません。イエス様は褒め上手なお方、褒めて人を伸ばす天才であったと私は思います。私たち日本人も、もっと自分を褒め、自分の家族を褒め、生徒を褒め、良い行いや愛のこもった行いには、声を出して褒めることをすべきだと思います。
最後に人を褒める愛に満ちていたイエス様に関連付けて、河野進牧師の「愛」という詩を紹介して終わります。
「愛」
約束を守らないのは 愛ではない
失敗を喜ぶのは 愛ではない
かげで悪口を言うのは 愛ではない
成功をねたむのは 愛ではない
施しをためらうのは、愛ではない
裏切られてうらむのは 愛ではない
自由をうばうのは 愛ではない
悔いるのを許さないのは 愛ではない