2023年6月15日(木)
朝 の 説 教
- 断食についての問答 - 『マタイ』9:14~17
マタイの福音書が断食にいついて書くのは、これで3回目です。1回目はイエス様が悪魔の誘惑を受け、荒野で40日40夜断食したという4章1節からの記事です。2回目は〈山上の説教〉の中で、律法学者たちが断食を人に見せて褒めてもらうためにしていると批判している6章16節以降の記事です。
今日はイエス様が断食についてどのように考えていたのかを、分かり易く箇条書き風に、質問を交えながら話したいと思います。
1 早速質問します。皆さんは断食をしたことがありますか?「ある」という人は手を挙げてください。きっと誰も手を挙げないでしょうね。運動部の生徒からは「そんなことしたら部活ができないし、死んじゃいますよ!」と猛反発を受けそうです。でも少なくとも英語圏の人は、人間は毎日断食をしていると考えています。英和辞典で朝食を意味する「breakfast」を引いてみました。すると「これは、break(破る)+fast(断食)からできた言葉で、前の晩から続けてきた断食を破って、初めて摂る食事が朝食であることに由来する」とありました。意識していなくても、私たちは毎日断食していることになりますね。
2 イエス様以前のユダヤ人は断食をしていたのでしょうか?答えはYes!です。
一つだけ例を挙げましょう。今から約3,000年前のダビデ王です。彼はユダヤ史上最高の名君と言われていますが、人生の中で一度だけ大きな過ちを犯しました。分かる人いますか?そうです不倫です。戦争に出ていて留守の部下ウリヤの妻を横取りし、ウリヤをわざと戦争の最前線に出して戦死させた罪です。それを預言者ナタンに指摘されました。自分の犯した罪の大きさに気付かされたダビデは、自分の罪を悔い改めるため、更には生れて来るバテシバとの子が健康であるようにと願い、1週間、昼も夜も断食しました。しかし「生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ」との神様の裁きは覆りませんでした。このように、本来断食とは罪の告白・赦し・祈りと結びついて行うものであります。
3 イエス様はなぜファリサイ派の人々の断食を否定されたのでしょうか?分かる人いますか?そうです。彼らの動機が極めて不純だからです。彼らは週に2回も断食をしていました。月曜日と木曜日です。その時彼らは、わざと人の多く集まる場所に出て行き、衣服を裂き、髪をぼうぼうにして、自分たちが断食しているのを見せびらかしたのです。そして人々から「何て立派な信仰的な人たちなんだろう!」との称賛を期待していました。イエス様は彼らの不純な動機を嫌われました。決して断食の必要性を否定したのではありません。
4 ではイエス様はなぜ積極的に弟子たちに断食を奨励しなかったのでしょうか?答えは今日の聖書に書かれています。例え話の天才であるイエス様は、今日も例え話を用いて説明しています。「婚礼の譬え」です。イエス様が弟子たちと一緒に食事をしている。それは結婚式の食事と同じだと言うのです。イエス様時代の結婚式は1週間続きました。普段は貧乏でも結婚式は別です。たくさんのご馳走やぶどう酒を並べ、大いに飲み・食べ・歌い・笑いました。この結婚式の花婿はイエス様です。お祝いにきた客はイエス様の弟子たちです。イエス様は言うのです、「花婿であるわたしが一緒にいる間、婚礼の客である弟子たちは悲しむことなどできない。しかし花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる」と。これはイエス様が捕らえられ、鞭打たれ、侮辱の限りを尽くされ、十字架で殺されることを言っています。その時は哀しみの極みですから、弟子たちは断食して神に必死の祈りをささげることになると言っているのです。でもイエス様が生きて共にいる間は、婚礼の時と同じ喜びの時であり、断食などあり得ないことだと言っているのです。
5 最後に私の勧める部分的断食の話をします。それはアメリカのクリスチャンが良く行うsacrificial mealです。直訳すれば「犠牲的食事」です。1週間に一度、或いはひと月に一度、食事の時のおかずを1品減らし、その分を貯金して、まとまったお金を貧しい人のために献げることです。私は53歳から高校教師を辞めギデオン協会という聖書を贈呈する団体で働きました。私の前任がKさんでした。3か月間私を指導して退職して行かれた人です。この人は毎週水曜日の昼食を食べないのです。静岡に家があり単身赴任していました。普段のお昼はコンビニの弁当かマクドナルドのハンバーガーなどでした。でも水曜日のお昼は何も食べないのです。気がついてから少しして思い切って聞きました。やっぱり断食を毎週水曜日のお昼にしていて、その弁当代に相当する約400円を貯金箱に入れ、少し貯まると同じビルの2階にある「国際飢餓対策機構」に献金しているとのことでした。腹が減ったらすぐ不機嫌になる私とは違い、断食の水曜日も、にこやかに笑顔を絶やさないクリスチャンの先輩でした。
私も今日の聖書から、K先輩の愛の断食を見習いたいものだと、先輩の優しいお顔を思い浮かべながら、改めて思わされているところであります。