2023年6月16日(金)
朝 の 説 教
- 指導者の娘とイエス - 『マタイ』9:18~26
今日の聖書記事は、『マルコによる福音書』の方がずっと詳しく書かれていますので、そちらを中心に話をします。まず、今日の聖書で「ある指導者」とあるのはヤイロという人で、会堂司でした。ユダヤ人は安息日である土曜日にはシナゴーグと呼ばれる会堂に集まり、礼拝をささげていました。ヤイロはその会堂の責任者で、礼拝を取り仕切る人でした。ユダヤ人の中では相当に高い地位にあり、多くの尊敬を集めている人でした。イエス様は安息日に会堂で説教していたことが聖書に書かれていますので、もしかするとヤイロとは既に面識があったのかもしれません。
ヤイロには12歳になる娘がいました。小学6年生位です。今日の聖書では「死んだ」とありますが、マルコでは「わたしの娘が死にそうです、どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり生きるでしょう」と地にひれ伏してイエス様に懇願しています。「地にひれ伏す」、ヤイロの娘を思う気持ちや必死さが伝わってきます。そこでイエス様はヤイロと一緒に出かけて行きました。弟子たちや群衆も後について行きました。
その途中、12年間長血で苦しむ女性が群衆の中に紛れて手を伸ばし、イエス様の着ていた服の裾に触りました。その瞬間女性の出血は完全に止り、病気が癒されました。イエス様は自分の体の中から力が出て行ったことに気づき、群衆の中で振り返り「わたしの服に触れたのはだれか」と言われました。弟子たちは、「こんなに多くの人がいるのだから特定などできませんよ」と言いますが、イエス様は執拗にその人を探し求めました。遂に長血の女が震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話しました。この女性はイエス様から病を癒されただけでなく、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に過ごしなさい」という愛のこもった有難いお言葉をいただきました。
この出来事の間、ヤイロはどんな気持ちだったでしょうか?私が同じ立場だったら、「早くしてくれ!娘が死んでしまう!イエス様早くしてください!」と心の中で叫んでいたことでしょう。案の定そこに使いが来て、「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」と会堂長に伝えました。「この長血の女のせいで道草をしたから、大切な娘は死んでしまったんだ!」、そう心の中で嘆いたのでしょうか?イエス様は「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長を励まし、娘の所に向いました。家に着くと、人々が大声で泣きわめき騒いでいました。当時、お葬式には必ず数人の「泣き女」と笛吹きが雇われました。泣き女の鳴き声と、笛の悲しそうな音色につられ、葬列者も大声で泣いていたのです。イエス様は「なぜ泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」と言いました。人々は冷たく反応します。聖書に「人々はイエスをあざ笑った」と書かれています。どうしてあざ笑うのでしょうか?結局は他人だからです。今生き返りでもすれば、お金を貰って泣いたり笛を吹いている人は困ります。商売の邪魔をするな!という気持ちでしょう。更には、常識的に死んだ者が生き返るなど馬鹿げていると感じたのでしょう。でも家族は違います。ヤイロはイエス様が言われた「恐れることはない。ただ信じなさい」と言う言葉を握りしめ、奇跡が起こることを必死に待ち望んだのです。私たちも死者が生き返ったなどと聞けば、そんなことを言う人を「あざ笑う」でしょう。でもそれは常識的ではあっても、あくまでも傍観者の心です。死者と真の愛情で繋がっていないからです。
私はヤイロの生き方・考え方・信仰に心から共鳴する者です。娘を思う必死さ、形振り構わずイエス様にすがる姿、自分の高い地位や周りから払われる尊敬の念などを振り払うようにイエス様の足元にひれ伏す姿、ただ一直線に信じる姿は、素晴らしいと思います。それこそがイエス様の心を揺り動かし、死者の甦りという奇跡に繋がったのだと思います。
最後に私の好きな讃美歌(聖歌)の「ただ信ぜよ」の歌詞・一番」を紹介して終わります。明治時代のクリスチャンは太鼓を叩きながら、この歌を歌って町中を行進したと聞いています。
ただ信ぜよ
十字架にかかりたる 救い主を見よや
こは汝(な)が犯したる 罪のため
ただ信ぜよ ただ信ぜよ
信ずるものは誰(たれ)も 皆救われん