- 五千人に食べ物を与える -『マタイ』14章13~21節
「五千人に食べ物を与える」という小見出しが付いた今日の聖書記事から、四つのことを話したいと思います。
第一は、この記事は四つの福音書全てに書かれているということです。四つの福音書、即ちマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの全てに書かれている記事は三つしかありません。第一はイエス様の十字架の死です。第二はイエス様の復活です。そして三番目が今日の五千人に食べ物を与えた話です。すべての福音書に取り上げられているということは、この出来事を弟子たちや聖書の記者たちが如何に重要なことと受け取ったかを示しています。
第二は、イエス様は本当に愛のお方であったということです。自分の先駆者であった洗礼者ヨハネが殺され、自分にも死の危険が迫る中、イエス様は人里離れたガリラヤ湖の対岸に一時退き、休養と祈りの時を持とうとしました。ガリラヤ湖の漁師であった弟子たちに船を出させ、向こう岸に向いました。でもそれを知った群衆は、湖岸を走ってイエス様を追いかけました。イエス様が到着すると群衆が既に待ち構えていたのです。イエス様は疲れ切っていました。
一人きりになって神様に祈りたいと思っていました。でもイエス様はご自身が休息と祈りの時を渇望しておられる時でも、誰一人をも邪魔者扱いにされるお方ではありませんでした。イエス様はここでも群衆を深く憐れみ、病気を癒し、人々の悩み苦しみに耳を傾けられたのです。イエス様は本当に愛のお方でした。
第三は、たった五つのパンと魚二匹で、どうやって5千人もの人々を満腹させたのかです。先生方や生徒諸君はきっと「こんなことあり得ない!馬鹿らしい!」と思ったことでしょう。「クリスチャンはこんな非現実的なことを信じているのか」と問われそうです。ある人々は、「当時のユダヤ人はコフィノスという弁当箱を持ち歩いていた。その中にパンやぶどうや干し魚を入れて持ち歩いていた。弟子たちが弁当を開いたので、群衆も皆自分の弁当を開き、食べ、満腹したのだ」と説明します。そうでしょうか?もしそうなら弟子たちもユダヤ人であり、弁当を持ち歩く習慣を知っていた筈ですから、「自分たちで村へ食べ物を買いに行かせましょう」とイエス様に提案する筈はありません。信じ難いことですが、私は単純に聖書の記事をそのまま信じている者です。
第四は弟子たちの言葉、「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」という発言についてです。不足を訴える絶望的な発言です。「・・・しかないんです。こんなものが何になりますか!」という発言です。パン5個と魚2匹、これが現実です。でもそれに対して、「これしかない!」と理解するのと、「いや、まだこれだけある!」と理解するのでは全く違います。
皆さんは星野富弘さんを知っていますか?もと群馬県の中学校の若手体育教師です。ある日の放課後、跳び箱の模範演技を生徒たちに見せる中、着地に失敗。大怪我をしてしまいました。その日以来、首から下が全く動かなくなってしまいました。一歩も動けないばかりか、ベッドで寝がりさえできなくなったのです。絶望です!死にたいと思いました。何しろ手足が効かないのです。足が動かないのですから、自分一人でトイレにも行けません。手が動ないのですから、ご飯を食べることもできないのです。「もう自分など生きていても仕方がない!」と絶望したのです。そんな時です。親切な病院の検査技師が三浦綾子さんの『塩狩峠』を貸してくれました。看護師さんの手助けで本を読みました。
更に三浦綾子さんの自伝『道ありき』も貸してくれました。三浦綾子さんも13年間、ベッドに寝た切りでただ天井を見つめながら病気と闘った方だと知りました。星野さんは本の中で、「真っ黒な悲しみの部屋に一筋の光が差し込んでくるのを感じたのです。このことが一つの転機となってキリスト教を求めるようになり、やがて洗礼を受けることになったのです」と書いています。そして口に絵筆を加えて詩や絵を描くようになり、今では全国各地、更には外国でも「星野富弘詩画展」を開き、美術館には多くの人がひっきりなしに訪れるようになりました。「もうこれしか残っていない!」の絶望から「まだこれが残っている!」の希望の人生に変えられたのです。
美術館の側には綺麗な湖があり、近くを桐生と足尾を結ぶ「わたらせ渓谷鉄道」が通る風光明媚な所です。皆さんも是非一度訪ね、星野富弘さんの人生を知り、口にくわえた絵筆で描かれた絵と詩を見て欲しいものであります。