2022年9月29日(木)
朝 の 説 教
- 時を見分ける - 『ルカ』12:54~56
ここまでイエス様は弟子たちに語って来られましたが、今日の聖書では「群衆にも言われた」(54節)とありますから、弟子たちも群衆も含めた全ての人に語ったところです。ここでもイエス様は実に巧みに例話を用いています。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに『にわか雨になる』と言う。
実はそのとおりになる。また南風が吹いているのを見る
と『暑くなる』と言う。事実そうなる」。2.000年前のガリラヤ地方での民衆の天気予報です。これは〈観天望気〉と呼ばれるものです。漢字から分かるように「天を観て気象を予測すること」です。今から2,000年も前のイエス様の時代、科学的な天気予報などありません。今はテレビでもスマホでも場所を指定すれば、一週間の天気予報を見ることが出来ます。温度や降水も予報されますので、どんな服装にするか、傘は持っていくべきかなどを決めるのに役立ちます。しかも天気予報の精度は年々向上しています。イエス様の時代、ガリラヤ湖で働く漁師たちやぶどうの収穫をする農夫たちは、自然の変化や動物の動きなどから、これからの天気を実に正確に予想しました。生活する上での必要に迫られたからです。西の空に雲がたくさん出れば、西から東に天気が変わるのですから雨が降り始めることは容易に想像出来ました。またここで〈南風〉と言われているのは〈シロッコ〉という地方風で、サハラ砂漠から地中海を越えて吹いて来る高温乾燥の風のことで、地中海では砂塵で視界が悪くなって船舶の航行に影響が出、ガリラヤ地方では熱波襲来になりました、そこでイエス様は、「このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか」と語りかけたのです。
少し脱線しますが観天望気の質問をします。朝、阿武隈川の土手を歩いていたら綺麗な朝焼けが見えました。天気はこれから良くなりますか?悪くなりますか?答えは「悪くなります」です。では、蜘蛛の巣に朝露がたくさん付いていました。天気はこれから良くなりますか?悪くなりますか?答えは「良くなります」です。二つとも解説したいのですが、それをやっているとイエス様の教えの解説が出来なくなるので、残念ながらここでストップです。テレビの有名な気象予報士、斉藤さんに質問してみたらどうでしょうか?きっと親切に分かり易く教えてくれますよ!
さて、イエス様が言う「今の時」・「今が時である」とは何でしょうか?ここでは「時」を表す言葉として「カイロス」といいうギリシャ語が使われています。これは単なる時を示す「クロノス」とは違って、「好機」とか「適切な時」を意味します。ですから「今が時です」とは「今が絶好のチャンスです」という意味で、「今こそイエス様を救い主(キリスト)と信じる絶好のチャンスなんですよ」、と言っているのです。良く理解してもらうために、『ヨハネ福音書』3章(167頁)に出て来るニコデモの話をします。ニコデモは国会議員でした。そこから容易に推測できるように、彼は宗教人であり、教養人であり、人生経験豊かで、自分よりずっと年若いイエスに「先生」と呼びかけている謙遜な人柄からも、正に欠点の見つからないような優等生でした。でも彼は心が満たされていなかったのです。何かが欠けているといつも感じて生きて来たのです。だから夜、暗闇に紛れて一人こっそりイエス様を訪問しました。そのニコデモの疑問に対してイエス様は、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」という有名な言葉で返事をしました。慌てたニコデモは「年をとった者が、どうしてまた生まれることができましょう。もう一度母の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と聞き返します。それに対してイエス様は間接的ながら、自分は神から遣わされた救い主(キリスト)であること、神の独り子であるわたしを信じる者は一人も滅びないで永遠の命を得るのだ、と教え諭されました。この時のニコデモがイエス様の言葉をどこまで正しく理解したかは分かりません。聖書にも何も書かれていません。でもヨハネ福音書は、19章39節でイエス様が十字架で亡くなった後のことを、「そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た」と書き記しています。今やニコデモは、「自分はイエスを救い主(キリスト)と信じる者に変えられたのだ」と正々堂々自らの信仰を告白し、自分がまさしくイエス・キリストの弟子であることを明らかにしたのであります。ニコデモこそ、今の時が何なのかを正しく理解した人でした。今や神の独り子が地上に送られ、自分たちの側におられる。まさしく今こそが神の時であり、イエス様を救い主(キリスト)と信じる絶好のチャンスであることを理解し、今ここに天国が創出されていることをニコデモは見出したのであります。
頑なにイエスを拒否し、求めようともしない、知ろうともしない、尋ねようともしない、その頑なで傲慢な心を主は嘆いておられるのです。私たちも例外ではありません。イエス様から「偽善者」と呼ばれることなど無いよう、心の内側からも外側からも、主を慕い求める者でありたいと改めて思わされた者であります。