新井秀校長説教集100「マルタとマリア」

2024年9月4日(水)朝 の 説 教
- マルタとマリア -『ルカ』10章38~42節

1 背景・・・最初に今日の聖書記事の背景を少しお話しします。第一に「イエスはある村にお入りになった」とあります。この村は「べタニア村」です。エルサレムから東へ3㎞ばかりの所にあります。「べタニア」とは「貧しい者の家」という意味です。きっと貧しい村だったのでしょう。日本語の「寒村」に近いイメージでしょうか?そこにマルタとマリアの家があり、イエス様は今日もこの家にお泊りになるつもりでした。姉のマルタと妹のマリアにはラザロという男の兄弟があり、ラザロはイエス様に命を救っていただきました。ですからイエス様は、一家にとって命の恩人、感謝してもしきれない人でした。だからイエス様一行が家に来ると、長女のマルタはもてなそうと忙しく働き始めたのです。ところが妹のマリアは姉を手伝わず、イエス様の足元にペタンと座り込んで熱心にイエス様のお話を聞いていました。天手古舞の姉のマルタは堪り兼ねてイエス様に、「主よ、わたしの妹は私だけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようおっしゃってください」と言いました。これが今日の物語のスタートです。

2 この物語から学ぶ三つのこと

  • マルタは天手古舞でした。空腹で疲れてやって来た大恩人のイエス様や

弟子たちに何を飲んでもらおうか、何を食べていただこうか、一人で大混乱していました。「マリアは妹のくせに台所仕事を全部私にやらせて、自分は何もしないでちゃっかりイエス様の足元に座ってお話を聞いている、一体どうゆうつもりなの!」とカッカカッカとしてきました。平静さを失った彼女は、主であるイエス様に、あたかも命令するような口調で、「主よ、わたしの妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」と言いました。これはイエス様への「命令」です。マルタの意味は「女主人」ですが、実際に女主人になってしまったようです。これは許されることではありません。イエス・キリストに言うべき言葉ではありません。自制心を見失った浅はかな心と言葉です。

  • 一方のマリアは、姉の気ぜわしさを知ってか知らずか、イエス様のお側

近くに座り、イエス様の話に熱心に耳を傾けていたのです。イエス様はこのマリアの時の過ごし方をお褒めになりました。イエス様は既に二回、辱めと十字架の死と復活を予告しています。十字架の死は近いのです。イエス様が今最も望んでいることは、福音を伝えることでした。喉を潤す一杯の水も、空腹を満たす焼きたてのパンも嬉しかったでしょうが、残された人生が僅かに迫る今、何よりしたかったのは福音を語ることでした。その願いに最も良く応えていたのが妹のマリアだったのです。

姉のマルタは「家の中にイエス様を迎え入れ」ましたが、妹のマリアは「心の中にイエス様を迎え入れた」のです。

  • やや興奮気味に怒った感じで自分に要求してきた姉のマルタにイエス

様は、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである」と答えました。ここで私が注目するのはイエス様が「マルタ、マルタ」と二回名前を呼んだことです。聖書を注意深く見ますと、名前を二度呼ばれた人が旧約聖書に二人出てきます。アブラハムとモーセです。アブラハムは一人子イサクをモリヤの山で捧げようとした瞬間、神の声が「アブラハム、アブラハム、その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが分かったからだ」という箇所(『創世記』22:11)です。モーセは父親の羊を追ってシナイ山に近づいた時、「神は声をかけられ、『モーセよ、モーセよ』と言われた」『出エジプト記』3:4)という箇所です。旧約の信仰者の代表のようなアブラハムやモーセと同じように、神は落ち度のあった姉マルタの名を二度も呼んで、彼女への愛と許し・期待を示したのです。何というイエス様の優しさであり、愛でしょうか!

そしてイエス様は、「無くてならぬものは多くはない。いや一つだけである」という有名な言葉を残されました。人生で最も大切な一つとは何か?イエス様は今もそのことを私たちに問うておられます。最も大切なただ一つのもの、それはイエス様でありイエス様の言葉だと言うのです。

私の暗記している英語では、「But, only one thing is needed」です。日本語の「なくてならぬものは多くはない、いや一つだけである」と共に、この英語の聖句も是非暗記して欲しいイエス様の大切なお言葉です。