新井秀校長説教集36 2学期始業礼拝~友のために命を捨てる愛~

2学期 始業礼拝

- 友のために命を捨てる愛 -

『Ⅰヨハネ』3章16 節~18 節

8月6日からの例年より短い夏休みでしたが、きっと元気に有意義に過ごしたことと思います。残暑が厳しいですが、コスモスが咲いたり日暮れが早くなったりして、秋の到来を感じる頃となりました。これからの2学期、一人一人自分の目標達成のために精一杯努力してください。努力の向こうには必ず喜びや感動が君たちを待っています。水泳の池江選手の久しぶりの泳ぎと涙を見て、私は改めてそのことを教えられました。

今日は16節のヨハネの言葉「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」について話したいと思います。これはイエス様の十字架の死と愛を言っています。大事な命を他人のために捨てるなんて、我々にはとても出来そうにありませんが、1学期の終業礼拝で話したように、サイクリングの途中、雨で濡れ、困っていた大学生の私に宿を提供し、食事までご馳走して下さった三戸の小学校の校長先生のような親切なら私たちにも出来るかもしれません。

コルベという神父の話をします。1941年、今から約80年前、アウシュビッツの収容所で餓死した神父です。ナチスを率いたヒットラーはユダヤ人とカトリックの神父を最も憎みました。ポーランドに侵攻したドイツ軍は多くのユダヤ人を捕らえ、家畜を運ぶための貨物列車に積み込み、アウシュビッツ強制収容所に送り込みました。収容所の食事は、一日にひとかけらパンのみでした。

コルベ神父は14号棟に入れられました。ある日、14号棟からパン職人であった一人の男が脱走しました。大がかりな捜索にもかかわらず、逃亡者は発見されませんでした。決まりで、無差別に選ばれた10人が責任を取らされ、餓死刑に処せられることになりました。夕方、フリッツ大佐が現れ、10名が読み上げられました。するとその中の一人、囚人番号5659、フランシスコ・ガヨヴニチェクが「わたしには妻がいる!子供がいる!」と叫んで泣き崩れました。

この時、驚くべきことが起こりました。コルベ神父が列を離れ前に進み出たのです。何事かと親衛隊員は自動小銃を構え、フリッツ大佐はピストルに手を当てました。コルベ神父は帽子を脱ぎ、直立不動の姿勢をとり、静かに言いました。

「お願いしたいことがあります」。
「何事か!」
「私には妻も子もいません。それに私は老人です。でも、あの人には家族があります。あの人の身代わりになりたいのです」。その場にいた全ての人が驚愕し、耳を疑いました。コルベ神父に圧倒されたフリッツ大佐は、返す言葉を失い、コルベ神父の求めに応じたのでした。コルベ神父はいつもこう言っていました。「憎しみからは何も生まれません。愛だけが創造するのです。苦しみは私たちを消滅させはしません。私たちがもっと強くなるように助けるのです」と。

コルベ神父ら10名には一滴の水も、一切れのパンも与えられませんでした。何人かは発狂して死にましたが、「コルベ神父のいた18号室からは、絶えず祈りと讃美歌が聞こえていた」との証言が残っています。1941年8月14日、コルベ神父は殉教の死を遂げました。

私たちにはとてもイエス様やコルベ神父のようなことは出来ませんが、コルベ神父が残した「憎しみからは何も生まれません。ただ愛だけが創造するのです」という言葉を、しっかり心に刻みたいと思います。