新井秀校長説教集85~愛のある人に~

                  2023年4 月10日(月)
第一学期始業礼拝
- 愛のある人に -

                     『ヨハネの手紙一』4:7~12

新しい年度に入りました。皆さんは進級して新3年生・新2年生になりました。おめでとう!特に3年生に言いたいのですが、時間の経つのは早いですよ。多くの部活は春から初夏に大会があり、負ければ一学期中に引退です。夏までには進路を決めておかないといけません。一日一日を大切に有意義に過ごしましょう。新2年生に期待するのは、教育者の東井義雄先生が良く語られたた「培其根」(ばいきこん)です。「その根を培う」という意味です。勉強に部活に資格取得に励み、皆さんの根を大きく太くして欲しいです。そして3年時には大きな実を結んで欲しいです。明日は入学式で202名の新入生が入って来ます。君たちには先輩として良い見本になって欲しいです。 続きを読む →

新井秀校長説教集84~エルサレム滅亡の予告~

   2022年12 月15日(木)

朝 の 説 教

          - エルサレム滅亡の予告 -  『ルカ』21:20~24

  今日の聖書は、イエス様が「神の都エルサレムは、神の怒りが下ってやがて滅亡する」と予告したところです。しかも主イエスは詳細に、「人々は剣の刃で倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と予言しました。そして予言は的中し、イエス様の死から約40年後の西暦70年、4年間も包囲されたエルサレムはローマ軍によって徹底的に破壊され、ヨセフスによれば110万人が殺され、約10万人が捕虜として連れ去られ、生き残ったユダヤ人は国を追われ、世界中に散り散りになってしまいました。以来ユダヤ人は、ヒットラーによる「ユダヤ人虐殺」など多くの迫害を受け、第二次世界大戦後にイスラエルが建国されるまでの約1800年間、自分の祖国をもたない「流浪の民」になってしまったのです。ユダヤ人が住んでいた、神が「約束の地」・「乳と密の流れる地」と呼んだあの肥沃なヨルダン川流域のオアシスは、以後「パレスチナ」(ペリシテ人の土地)と呼ばれることになるのです。以上は歴史が証明することです。 続きを読む →

新井秀校長説教集83~週末の徴~

校長

2022年12 月14日(水)

朝 の 説 教

- 終 末 の 徴 -    『ルカ』21:7~19

今日の聖書は、人々がエルサレム神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを褒め称えたこと対するイエス様の言葉です。歴史学者ヨセフスは『ユダヤ戦記』の中で、「エルサレム神殿の正面は人々の心を奪い、目を見張らせるに十分だった。外側のすべてが重厚な金の板で覆われていたからである。朝日が昇るとそれはまばゆく光り輝き、見る者は目を逸らさずにはいられなかった。まるで直射日光を受けたような感じだったからである」と述べています。神殿の中には高さ12メートルもの繋ぎ目の無い大理石の柱が何本もあり、純金でできた大きなぶどうの木と房の献納物がありました。房は人間の背丈程あったと言います。これだけのものを見れば人が驚き褒め称えるのは当然でしょう。でもイエス様は「やがてこれらは皆崩壊されて跡形もなくなるのだ。見える物は必ず滅びる。見えないものの中にこそ永遠に続くものがあるのだ」と教えられたのです。 続きを読む →

新井秀校長説教集82~やもめの献金~

 2022年12 月7日(水) 朝 の 説 教            - やもめの献金 -     『ルカ』21:1~4 今日の物語をより良く理解するために、最初に4つ説明します。 第一は、「やもめ」についてです。やもめは広く考えれば配偶者を亡くした夫や妻を指すのですが、ここでのギリシャ語は女性名詞ですから、この人は「女やもめ」だと分かります。英語にも男性ならば「host」、女性ならば「hostess」と分けて用いる場合があるのと同じです。 第二は、だとすると、ここはエルサレム神殿内の「婦人の庭」での出来... 続きを読む

新井秀校長説教集81~復活についての問答~

   2022年12 月2日(金) 朝 の 説 教           - 復活についての問答 -   『ルカ』20:27~40   今日は、復活などあり得ないとするサドカイ派の人々とイエス様の問答です。 イエス様は既に三回弟子たちに「自分は十字架で殺されるが三日目に復活する」と告げていました。30歳台前半の若さでの死は、人間イエスには避けたいことでした。でもこれは父なる神のご意思であり、イエス様はその命令に粛々と従って死に場所であるエルサレムに来たのでした。そんな十字架の死と復活を目前にしたイ... 続きを読む

新井秀校長説教集80~終着点エルサレムに~

校長

2022年11月18日(金)

朝 の 説 教

          - 終着点エルサレムに -  『ルカ』19:28~44

イエス様はいよいよ人生の終着点であるエルサレムに入られました。数日後には十字架に掛かって殺されることを覚悟してエルサレムに来られたのです。まだ30歳台前半の若さでした。一体どんなお気持ちだったのでしょうか?今日の聖書箇所から大事な点を3つお話します。

第一は、エルサレムに入る時の情景です。エルサレムはユダヤ人にとっては最も神聖な町であり、心の故郷です。そこにはかつてソロモン王が建てた荘厳なエルサレム神殿がありました。折からユダヤ最大のお祭りである「過越祭」の最中で、エルサレムは多くの人々でごった返していました。そのエルサレムにイエス様は子ろばに乗って入りました。その進む道に、人々は自分の衣服や棕櫚の枝を敷き、「ホサナ!王に祝福があるように!」と歓呼の声をあげ、神を賛美しつつイエス様を迎え入れたのです。 続きを読む →

新井秀校長説教集79~乳飲み子のように~

 2022年11月9日(水)

朝 の 説 教

           - 乳飲み子のように -   『ルカ』18:15~17

今日の聖書箇所について最初に2つ説明をしておきます。第一は、イエス様に触れていただくのは何のためかということです。これはイエス様をラビ(先生)の一人と考えた母親たちが、自分たちの幼子の頭にイエス様に手を置いていただいて祝福の祈りをしてもらうためです。第二は、それに対して弟子たちがなぜ叱ったのかです。「叱り飛ばした」とも訳せる強い言葉です。愛情のない酷い仕打ちのように思います。弟子たちは既にイエス様からに二度、「自分はエルサレムで指導者たちから辱めを受け、侮辱され、苦しめられて十字架刑で殺される」と告げられていました。 続きを読む →

新井秀校長説教集78~放蕩息子のたとえ~

2022年10月21日(金)

朝 の 説 教

- 放蕩息子のたとえ -  『ルカ』15:11~25

 

今日の「放蕩息子のたとえ」は、芥川龍之介が「短編小説の極致」と呼んだほど素晴らしい例え話です。

ある人に息子が二人いました。弟がある日突然「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」と要求しました。父は「何を言うか!そんなことが出来るか!」と怒って断ることも出来たのにそれを認め、慣例に従って長男の分として三分の二を取っておき、残りの三分の一を弟に分け与えました。彼は財産を全部お金に換え、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして無一文になってしまいました。「放蕩」とは「酒や女にふけり、身を持ち崩すこと」です。しかも飢饉が追い打ちをかけ、彼は食べる物にも困り、ある人の世話で豚飼いをさせてもらいました。ユダヤ人は豚を汚れたものとして忌み嫌いその肉は食べません。弟はあまりの空腹から豚の餌になる「いなご豆」さえ食べたくなる程でした。 続きを読む →

新井秀校長説教集77~安息日に水腫の人を癒す~

校長

    2022年10月12日(水)

朝 の 説 教

          - 安息日に水腫の人を癒す - 『ルカ』14:1~6

『ルカによる福音書』には安息日論争の記事が4つあります。既にその内の3つを学びました。第一が「安息日に麦の穂を摘む」(6:1~)、第二が「安息日に手の萎えた人を癒す」(6:6~)、第三は「安息日に腰の曲がった婦人を癒す」(13:10~)、そして第四が今日の話「安息日に水腫の人を癒す」です。

前回も申し上げたことですが、週に一日の安息日を設け、社会の底辺に喘いでいる女性や奴隷や寄留の他国人、さらには馬やロバなどの家畜にまで適用されていたことは、真に驚くべきことです。遥か昔にこんな愛情豊かな、弱い者の立場に立った決まりがあったことは真に驚くべきことです。ところが時が経つにつれ、愛情がたっぷり込められた安息日規定から愛の精神が消えうせ、他人の行動を監視し、決まりを守っていなければ容赦なく取り締まる、ギスギスした社会に変わってしまっていたのです。 続きを読む →

新井秀校長説教集76~狭き門から入れ~

2022年10月7日(金)
朝 の 説 教
- 狭き門から入れ -  『ルカ』13:22~24

イエス様は今エルサレムに向っています。何のためか?十字架で殺されるためです。そして三日目に復活するためです。イエス様は既に2回、弟子たちに自分の死を予告しました。今日の聖書はご自分の死が間近に迫っている中での出来事であり、その中で語られたイエス様のお言葉です。

24節に「狭い戸口から入るように努めなさい」という言葉があります。私にとっては忘れられない言葉です。高校3年の春、私は本屋でアンドレ・ジイドの『狭き門』という小説を買い通学の電車の中で読みました。表紙を開くと最初に出てきたのが「力を尽くして狭き門より入れ(いれ)」という言葉でした。今日の聖書の言葉の文語訳です。私は頭が悪く記憶力も悪い者ですが、不思議とこの言葉だけは何か心に突き刺さるような感じで、以後ずっと忘れられません。「狭き門」とは一体何だろう?その時、そう思いました。

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